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| ◆有機農業との出会い |
明浜は、四国愛媛県の西南部に位置し、雨の少ない温暖な気候、山と海に囲まれた風光明媚なところで、古くから蜜柑の産地だった。山海の幸に恵まれ、自然の中で生きようとする者にとって暮らしやすい町である。
昭和34年、農業基本法が制定され、それまで藷麦の自給生活と、養蚕という現金収入の農業で成り立っていたのが、選択的拡大と称して植えよ増やせよの掛け声の下、南予一円猫の額ほどの畑にまで蜜柑を植えていったのである(一時期は自家菜園まで蜜柑を植え、胡瓜など野菜を買って食べていた頃もあった)。 結果、愛媛県は、和歌山、静岡を抜いて日本一の蜜柑生産県になったのである。昭和42年頃、植えた蜜柑がやっと成り始めた頃、370万トンという最高生産量で販売価格の暴落が始まったのである。
昭和49年頃、栽培過剰による苛酷な産地間競争が進行中であった。わが明浜町は、この産地間競争に生き抜くために、伊予柑、ポンカンなどの高級晩柑類に更新を進めていた。これらの晩柑類は栽培が難しく、温州蜜柑以上に農薬肥料を必要とした。農薬、化学肥料、除草剤は、確実に生産者の肉体を蝕み、医者通いを強いられた。そればかりでなく、土壌、自然環境が加速度的に破壊され、一昔と比べ海も山も畑も川も生物の生息状態が目に見えて変化した。
それでも百姓は、農薬は農の「薬」でなく農の「毒薬」であることを知らず黙々と働いた。なぜ、DDTが、BHCが、ホリド−ルが、水銀剤が使用禁止になったのかを深く考えないのだろうか?(農薬のビンや袋には、使用時にはマスクをして、体に触れないよう合羽を着るように、収穫前何日以内は使用しないように、との表示がされてあった。まさに毒薬の使用規定と同じと思うのだが。挙句の果て、昔の薬はよう効きよったが、今の薬は濃くしないと利きが悪いと嘆くのである・・・)
価格暴落下の蜜柑生産者は、鼻の先にぶら下げられた人参を食べようと必死に走る馬のように、金儲けのために日夜汲々とするようになり、植物や家畜を育てる喜びの汗は、苦痛の汗に変わったのである。
この状況目の当たりにして、我々は近代農業に疑問を抱き始めた。
百姓の特権は自然の中に融け込んだ生活、額に汗して働く喜びを以て、一生を土と親しみ、土に還ことではなかったか。農薬や化学肥料で命の切り売りをするのが農業なのか。それにしても、女郎蜘も、キリギリスも、コウロギもバッタも、カニも、貝も、魚も、蜜柑を作るようになってめっきり減った。これらの生きものは子供の玩具であり生きた教材であった・・・。
その頃世間一般でも有害食品、汚染、公害が社会問題となり始め、朝日新聞に連載された、「複合汚染」が大きな反響を呼んでいた。我々が「有機農業」の名を目にしたのもこの小説だった。夜な夜な酒を飲むと、「なんで高校もない、医者もいないこんな所に住みたいのか。このままの農業じゃ駄目だ、何かやろう・・・。いい汗のかける百姓を我々はやらなければならないのだ。」夜が更けるまで何十回、何百回この言葉を繰り返したことか・・・。有機農業という言葉を理解できてないうちに、無茶々園の原型はその時既に生まれていた。
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| ◆無茶々園の誕生 |
昭和49年5月、我々は、広福寺住職の好意で15aの伊予柑園を貸してもらい、有機農業の研究園を作り、これを「無茶々園」と名付け本格的活動を開始した。
「無茶々(ムチャチャ)」とは、スペイン語で、本国では「お嬢さん」、メキシコでは「ねえちゃん」、フィリピンでは「女中」の意だそうな。ネオン街の蝶を追っ掛けるより、蜜柑畑のアゲハチョウでも追っ掛けようや。無農薬、無化学肥料栽培なんて無茶なことかもしれないが、そこは無欲になって、無茶苦茶に頑張ってみようという意味を含めて「無茶々園」と命名した。
昭和50年〜53年までは実験段階であったといえる。50年に、伊予市で自然農法を実践している福岡正信師匠の園を見せてもらい師の指導を受けて、無茶々園の無農薬、無化学肥料栽倍を開始した。この年収穫した伊予柑は、農協へ出荷したため、みてくれが悪く大半が加工となった。
51年、この頃になって、ようやく、有機農業、自然農法という言葉が理解できるようになったが、まだ、無農薬、無化学肥料でやっていける見通しはなかった。無茶々園の農業に対する考え方が大筋でまとまりかけたのは52年の頃だった。
蜜柑専業で、高収入を上げる品種に更新していくだけでは、日本経済の変動にはついていけない。蜜柑農業を主体に、海と山と段畑を有機的にリサイクルさせる「町内複合経営」が理想であり、できるだけ石油には頼らないようにしよう、とする方向がまとまった。この年、山のクヌギを切り椎茸の菌を打ち、長野県から日本ザーネンシュの山羊を10頭買い入れ複合経営の実験を始めた。しかし、組織的、精神的未熟さでこの実験は挫折してしまった。
有機農業を成功させるには、できた生産物をそれなりの価値で食べて貰うことが必要である。52年の伊予柑は、松山市の自然食品店に引き取ってもらい、初めて「無茶々園蜜柑」としての期待の値段が付いたのである。
そして、この店との出会いは、食物と健康の関係、あるいは、理想の農業に近付くためには、農業の問題から出発して、食生活、健康、社会環境、教育に至るまで考え、考慮する必要があることを教わり、そのためには、無茶々園の運動を単なる農産物の生産方法の問題ではなく、食生活、社会教育等々、町作り的な活動に広げていかなければならないということを学んだ。
昭和53年は、マスコミ(愛媛新聞、朝日新聞、NHK)が無茶々園を取り上げ、無茶々園は、一躍全国に知れることとなった。そのお陰で、無茶々園は多くの理解者、指導者を得ることができ、名実共に動きが始まった。この年の蜜柑は全国の皆様のお陰で全量販売することができ、無茶々園の最大の問題である販売面にも期待が持てるようになった。
この年、見てくれさえ我慢してもらえれば、マシンオイル以外、無農薬でできるという一応の展望を持った。ただ、蜜柑は、植栽して7年目頃から金になり始める永年作物なので、栽培技術の確立は、15〜20年かけてじっくり見極める必要があった。 |
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| ◆ノ−トピア(百姓の理想郷をめざして) |
昭和54年から無茶々園は、会員各自の園での試作段階に入り、面積を1ha程に増やし、温州蜜柑、伊予柑、甘夏柑に取り組んだ。ところが収穫直前になって温州蜜柑にミドリクサカメ虫が異常発生し、半分が駄目になってしまった。折悪く蜜柑の生産過剰の中で思うように販売もできず、実に惨めな現実を突き付けられた。この苦節を教訓にして昭和55年2月にはメンバ−6名が上京して、神田市場、自然食品店、生協、消費者グル−プ、日本有機農業研究会などに出掛け、栽培技術から販売に至るまで勉強した(以後我々は毎年上京し、研修を重ねている)。6月には全国自然保護連盟の高知大会に出席した。これらの交流を通して、農業も含めて、自然を大切にしようと努力している多くの先輩諸兄がおられる事を知ったのである。この時点で我々も少しずつ大海の流れを知るようになり、最早、後には引けなくなったのである。よって、町内全園の無茶々園化、無茶々園の町作り構想へと進化していった。
またこの年、無茶々園規約を作り、機関誌天歩の発行を始めた。
昭和55年、町が、大早津.という場所の日鉄鉱山跡に、三井物産と組んで、LPG基地を作るという計画を立てました。我々は今まで敗ける喧嘩はしないことにしていたが、この時だけは敗けるかもしれない、と思いながらも我々の目指す町作りとは反対の方向に進むものと、渾身のエネルギ−を注いで反対しました。こんなシンドイ喧嘩は二度と御免だという程頑張りました。
結果的には幸いにも、イラン・イラク戦争の影響で三井物産が断念せざるを得なくなり中止となったのです。なぜ反対かと言いますと、過疎の町へ都市型の企業が来て、都市並みの給与を貰い、いい車に乗って、ク−ラ−の効いた部屋で、日曜日には海辺でビキニのギャル達とイチャつかれたのでは、汗と草にまみれて蜜柑山で働く気がせんようになると思ったからです。結果、我々のめざす町にはならないと思ったからであります。しかしながら、伊方町に原発を作った町長も、明浜町にLPG基地を作ろうとした我が町長も激しい過疎の進行を目のあたりにしたとき無理からん決断と思うのです。(我が明浜町はこのまま過疎が進めば50年後には人口ゼロとなる)悪いのは、こうゆう都市のお荷物、公害発生源、危険物を金の力で田舎や、南の国へ分散しようとする金持ち、企業家、環境破壊に加担したり、南の国の資源を無節操に収奪する企業で生活の糧を得ている連中、或いはそんな仕事に父ちゃんを扱き使っておきながら緑の地球を守りましょう、とかといってる伯母ちゃん達だと思います。(なぜ田舎が過疎になったかを考えなければ原発はなくなりません)
我が町に、都市型産業の導入が破綻したことで、無茶々園のノ−トピア構想が日の目を見る機会がでてきたのです。
四季折々の山海の自然と親しみ、利用し、共存する。そして、年寄りには生きがいを与え、誰もが健康で長生きのできる里、それが百姓の理想郷・・・農のユ−トピア・・・・「ノ−トピア」なのである。伊方町が原発を捨てるには、伊方町にとって甚大な事故が起きるか、原発を必要としないような町作りができるかであって、旗を振って反対を叫んでも変わらないと思うのです。そんな面からしても、無茶々の里に、ノ−トピアが作れるか面白いところです。 |
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| ◆消費者との相互理解を以て |
かって、右も左も分からなかった頃、日本有機農研にいって一楽理事長に「蜜柑を買ってもらえませんか」と頼んだことがある。すると理事長は、煙草を持った手を震わせ、頭を沸騰させながら、「食物を売る買うとは何ごとぞ!」と、怒りだした。真面目に百姓をやりよる我々が、東京まで来て怒られるのは割りがあわん。「わしらは、生活かけて無農薬の蜜柑を作りよるんじゃ。買ってもらわんことには生きていけんことぐらい分かるじゃろうがこの禿げ頭!」 もう少しで掴みあいになるところであった。
"儲ける"とは、者を信じると書く。信用できるものを作らなければ売れないということは昔からの真理だ。この時までは、我々は売る買うの世界しか知らなかった。「食物は、作る者と、食べる者とがお互い顔が見え、理解しあって生きていかなければならない」。ここに、我々の知らなかった神様の世界に近い特別な流通があることを学んだのである。以後一楽師匠の教えのような関係の保てる消費者を求めて行脚が始まった。なかなかこのような関係の消費者に巡り合うのは難しいし、環境破壊の進化と反比例するように減少してきたように思える。
昭和59年蜜柑価格の低迷が続き、このままでは、田舎が必要とする農家まで気力を無くしてしまいそうな状況となった為、栽培の面で一末の不安はあったが販売面は順調だったので、思い切って地域へ普及拡大する普及段階に移った。会員数は32名に増え、無茶々園化栽培面積は、8ha余りとなり、生産量も58年の倍以上の200トンを越えた。「無茶々園と消費者との提携に関する申し合わせ書」を取り交わし、さらなる親密な関係をめざした。
昭和62年には農協も有機農業部会として無茶々園を認めることを理事会で決定した。有機農業を目指す農家は殆どが農協に失望して農協をやめていくのだが、現状ではどうしようもない農協かもしれないが百姓のシンボル組織であることには違いない。必ず近いうちに主導権を貰い受ける。それまでは投資と思って付き合おう。
昭和63年には会員55名面積34ha生産量700トンとなった。平成2年には会員数も面積も町内全体の1割を越え、着実に若い農業者に浸透していった。そして、平成5年、本浦地区においては、50haの蜜柑園にスプリンクラー統一施設が出来上がり、地区全体で、無茶々園に取組むか、農薬の散布をするか、まさに、無茶々園にとって天下分け目の関ケ原の攻防が潜行しながら熾烈に進んでいるところである。
無茶々園は、個人の消費者・グル−プ・団体・自然食品店・小売店・生協・ス−パ−・市場・学校給食等、考えられる殆どの販売ル−トで販売を行なっている。基本的にはお互いに顔の見える関係を販売活動の礎としているが、エコロジカルな町作りを目指す無茶々園としては、消費者とのきちんとした付き合いも大切だが、まず、町内全園の無茶々園化を目指しており、大量の無茶々園蜜柑が生産されるようになると、量販店や、市場との付き合いが不可避と思われる。
今後は、提携という関係は大切にしなければならないが生産量、品質等の状態を睨みながら無茶々園独自の、消費者との相互理解を築いて行かねばならない。 |
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